大宰府天満宮でおなじみの太宰府市!その土地の概要を解説
太宰府市は、人口約72,000人が住む、交通・気候・風土・景観に恵まれた住宅・文教都市です。
昭和30年に太宰府町と水城村が合併して太宰府町となった当時は、人口が13,264人でしたが、その後福岡都市圏の膨張、大規模開発による住宅化の進行、大学の立地、交通網の整備などにより人口は急増し、昭和57年に全国では651番目(県内では22番目)の市制を施行しました。
現在も「史跡や緑にめぐまれた福岡都市圏の住宅都市」として発展を続けています。
アジアの玄関口として栄えた太宰府市の地勢
太宰府市は、福岡市の南東約16キロメートルに位置し、面積は29.60㎢。
自然に囲まれた環境で、北に四王寺山、東には宝満山があります。
市を縦貫する御笠川は、宝満山に源を発して市街地を通り、途中鷺田川、大佐野川と合流し、博多湾に注いでいます。
大宰府市の歴史は、この筑紫の土地に「遠の朝廷」と称された「大宰府(政庁)」が置かれたことから始まりました。
さらに、アジアに開かれた玄関口として重要な役割を果たし、今でもその位置づけは続いています。
太宰府の歴史なしでは語ることができない!太宰府市のなりたち
「大宰府」は、もともと「オオミコトモチノツカサ」と呼ばれる大きな役所をさす言葉でした。
そこには「太宰(オオミコトモチ)」という、地方行政上重要な地域に置かれた役職、いわば地方行政長官がいて、7世紀後半から500年もの間、九州の政治経済・軍事・外交を司る役所として、九州全体を管轄する役割を果たしました。
大宰府があったことで、多くの要人が行き来したとされ、奈良時代には、大伴旅人や鑑真などの来訪が伝えられており、平安時代には菅原道真がこの地に遷されました。
建物としての太宰府がなくなっても、権威としての「太宰府」は生き続け、鎌倉幕府の守護として下ってきた武藤氏も太宰府を居城としました。
戦国時代末期には静かな農村へと姿を変え、江戸時代から近世・近代を経て、明治22年北谷・内山の2村が合併して太宰府村となり、のちに水城村と合併することになります。
さらに町制施行・市制施行を経て、昭和57年に今の太宰府市となりました。
まとめ
はるかな歴史を感じさせるまち、太宰府市。
約15%が史跡地に指定されており、菅原道真公を祀ったとされる大宰府天満宮をはじめ、大宰府跡、水城跡、観世音寺など歴史をしのばせる遺跡や文化財が大切に守られています。
万葉集にも歌われた太宰府の梅は、菅原道真公が愛した伝承の飛梅とともに、全国的にも有名です。
歴史のロマンに思いをはせながら、大宰府の地を歩いてみませんか。
また現在新型ウィルス感染拡大防止のため、観光エリアも休業等の措置を行っている可能性がありますので、事前に確認することをおすすめします。
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